崇神天皇の御代、知知夫国の祖神であった、知知夫彦命の霊を、この武甲山に奉祀して以来今日まで、神奈備山(神様のこもる山)として山麓の人々に崇められて参りました。信仰の山としての山塊であるばかりではなく、自然科学から見ても地質、動物、植物など、秩父の山塊のうち他にその類を見ない貴重な存在でした。北面及び頂上の石灰岩採掘によって山容は変貌し、自然科学としての価値も消失して行きます。今ここに失われていく資料を蒐集し、当時の武甲山の全貌を後世に伝えるために、資料館を設立いたしました。なお入り口のコルトンボックスの写真2枚のうち昔の武甲山というのが昭和35年頃、入口の武甲山は平成10年頃のものであり、台石は石灰岩を切断し、磨いて作ったものです。
| 位置 | 埼玉県秩父市大宮6176番地(羊山公園・忠霊塔東側) |
|---|---|
| 工費 | 総工費105,000,000円 (建築63,000,000円・展示42,000,000円) |
| 構造 | 鉄筋コンクリート造平屋建 |
| 規模 | 敷地面積1,000平方メートル・建築面積403.20平方メートル |
武甲山の歴史をたどってみると、現在の「武甲山」と呼ばれるようになるまでに、いくつかの山名が移り変わっています。これらの山名の変化にはそれぞれの時代に秩父を代表する権威者(政治的・宗教的)の名前、または神の名が反映されています。武甲山は秩父の歴史の中でも、聳え立つ象徴であったのです。
古い時代、まだ言葉のみ用いて文字を持つにいたらなかった頃には「たけ」・「たけやま」と呼んでいました。人々にとってこの山は秩父の象徴であり、神奈備山(カナビヤマ−神様のこもる山)として崇められてきました。この山名は現在「武山」(タケヤマ)に残っています。
第10代崇人天皇の時代に、知知夫彦命が知知夫の国造に任命され、秩父神社を拠り所にして神体を奉祀しました。知知夫国時代へ入った時点で「知々夫ヶ嶽」と呼ばれるようになりました。江戸時代の文献に「秩父山」と見えるのは古代の名残でしょう。
大宝律令が制定(701年)されて、武蔵国初代の国司として赴任した人物が引田朝臣祖父です。この名前が冠せられて「祖父ヶ嶽」と呼ばれるようになりました。
平安時代、山麓地域に武光庄という荘園が成立しました。武光とは荘園の開発者名であったのでしょう。これによって「武光山」と呼ばれるようになりました。
1235年秩父神社は落雷により炎上しました。これ以降同社に妙見大菩薩が合祀されその後秩父妙見宮として隆盛しました。これにより神体山の名称も「武光山」から「妙見山」へと変化しました。
日本武尊が登山されて武具・甲冑を岩蔵に納め、東征の成功を祈ったところから山名が「武甲山」になったという伝説が元禄時代の頃から秩父の人々に伝承され定着しました。
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